髪の神様

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髪結職の発祥は鎌倉時代にさかのぼる。

古来わが国の風俗として髪は自分で結うか家人が手伝って結髪していたとのこと。

「洛中洛外屏風」や江戸中期につくられた「壱銭職由緖書」と言う伝承資料はともに髪結職のルーツを知ることの参考とされるとのことである

洛中洛外図右 洛中洛外図左

※洛中洛外屏風

日本での髪結のルーツを知るには「御髪神社」は外せない。

この神社は小倉百人一首で有名な小倉山の南東麓、嵯峨野小倉池のほとりに鎮座する、日本で唯一の髪の神社です

御祭神は 藤原采女亮政之公で髪を副神として納祭する髪塚が有る。

説明しますと・・・

藤原鎌足(中臣鎌足)といえば皆わかるでしょう⇩

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※菊池容斎画 中臣鎌足肖像


中大兄皇子(後の
天智天皇)と共に蘇我氏を暗殺した乙巳の変を起こし、「大化の改新」という改革を行ったとされている。その藤原鎌足の子孫である藤原基晴(晴基)の三男である采女亮(うねめのすけ)政之公が日本最初の「床屋」だとされています。

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乙巳の変

亀山天皇(1259~1274年/ 鎌倉時代の第90代天皇)の御代、北小路左衛尉 藤原基晴卿が宮中の宝物係として仕えていたが所管の宝物(宝刀九王丸/九竜丸)を紛失した責任をとり、 諸国行脚し文永5年(1268)下関に居を構えた(当時元寇にそなえ武士が集まっていた)。その三男の采女亮政之公が生計のために髪結職を始め往来の武士を客として業を営み探索を続けた。それが髪結業の始祖とされる。
その後、政之公は居を鎌倉に移した後、建武2年(1335)に没し、従五位を賜った。のちに家康が武田信玄と遠江の三方カ原において戦いに敗れて、浜松に戻る途中、天竜川が大雨で満水となって渡河に苦しんでいるとき、采女亮十七代の孫、北小路藤七郎が通りかかり浅瀬をさがしながら天竜川を案内した。そこで家康の供に加わると共に家康の髪を結い、銀一銭と脇差などを賜ったとされている。その時に「一銭職」の名前を許され、諸国通行勝手という許しを受けたが、その後の慶長9年(1604)に江戸赤羽に移り住み、それから四代目幸次郎の頃に江戸八百八町に、一町一軒の髪結床の許しを受けた。」ということです。

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”御髪神社にある髪塚”の説明にハッとさせられました⇩

「髪は人身の最上位にあって造化の神より賜った

美しい自然の冠りであると共に生前にも残し得る

唯一の分身(カタミ)として大きな恩恵に

感謝する為副神として納祭し祈拝される」

※ 御髪神社の境内には、髪塚と呼ばれる石塚が建っています。髪塚は、願い事をしながら切った髪の毛を納めるとご利益があるといわれ、献納された髪の毛は神官によって祈拝が行われます。

-理髪について-

平安時代の元服の儀式に加冠、理髪の所役があって「故実拾要巻九」に次のように教えている。

「理髪とは、一々作法有て髪の末を切を理髪と言うなりー」「加冠」とは元服せらるる童形に、

冠を令蒙を言也」加冠の役、鳥帽子を取ってかぶらせ申す人也。

引入(ひきいれ)とも言う、理髪の役髪を結ひ、髪をはやす(切ることを反対にいう意味言葉)人也、

上記二人役め他に、能冠と言う所役もあって、上記両役の補助者とみられる。

下級武人の元服には冠は用いないけれども(引入)「理髪」はあってその式を行った、とある。

日本では「 理 髪 」と言う熟語が知られるようになるのは

明治十二年に「理髪人」と記した営業鑑札が発行されるようになってからで、

さらに明治三十四年三月に「理髪営業取締規則」が、警視庁令第十一号で公布されて

公的にハッキりしてくる。 現在の「理容」と言う熟語が公的に確立されるのは、

昭和十年十二月警視庁令第二十九号「理容術営業取締規則」によってであった。

 

床屋という呼び名の起源—————————————————

・店の床の間には、以前仕えていた亀山天皇と藤原家先祖を祀る立派な祭壇があったので、人々はいつとはなしに「床の間のある店」→「床場」→「床屋」という屋号で呼ぶようになり、床屋という呼名は下関で生まれ、全国に広まっていきました、という説

・理髪店は「髪結い」と呼ばれ、屋台のような移動式の簡易な店構えでこのような簡易式の店舗は「床店(とこみせ)」と呼ばれており、
「髪結い」の「床店」なので「髪結床」、それがのちに床屋と呼ばれるようになった説

結いが今で言う和室の床の間で作業を行ったからという説

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このように日本の美容文化を調べればまだまだ面白い情報は山ほどあります。今の日本の美容文化は西洋から入ってきたものがベースとなり、日本人ならではの技巧力の高さとセンスが加わり、世界の美容師たちにも沢山影響をあたえる存在となりました。最近では和服や日本の伝統的なものがユースカルチャーの中にも他国の文化を取り入れるかのように組み込まれているようにも感じます。伝統的なスタイルを継承することと同じくらい良いことだと思います。両方ないと駄目になる、そう思います。ヘアスタイルも日本の髪結いスタイルと現代のスタイルが融合したスタイルが普通に街中で目に付くようになるでしょうwたぶん。江戸後期、ヘアスタイルのバリエーションが急速に増えて時期があります。その数とヘアスタイルの完成度やスタイル性には驚いたことを今でも鮮明に覚えています。機会があればブログに書きたいと思います。

 

 

御髪神社(みかみじんじゃ)—————————

・京都市右京区嵯峨小倉山田渕山町10-2

・075-882-9771

・アクセス 京福電車嵐山線「嵐山駅」下車徒歩10分

・境内自由

・駐車場 なし

采女亮政之公のお墓———————————————–
西信寺(東京)采女亮のお墓は、現在、文京区大塚の西信寺にあります。もともとは西信寺の向かい側にあった大慈寺というお寺にあったのですが、明治時代の廃仏毀釈によって廃寺になった際に、霊簿序(過去帳)とともに西信寺に移されたそうです。お墓は150~160cmほどの大きさで、正面には「理容業祖北小路采女助累世墓」「采女講」「施主・東町・平床」と、また側面には「大正二年十一月十七日再建」「采女講々中」「発起人及有志」の文字が刻まれています。このことからこのお墓が大正2年に理容業者によって建て替えられ、毎月17日に地元の理容組合によって講(采女講)が盛大に催されていたことがわかります。 顕彰碑平成12年1月には、「日本理容業開祖 北小路采女助墓所」と記された顕彰碑が山門前に建立されました。住所: 東京都文京区大塚5-2-10

 

伊澤 “izm0” 昌高